思考の本来の形

私は思考と感情は自我だと説明している。
自我は本当の自分とはちがい、脳が作り出した自己像である。

ここで私が説明しているのは、「思考=自分」ではないということである。
「感情=自分」でもないということである。

では、思考せずに生きることはできるのだろうか。
思考の本来の使い方をみてみよう。

思考は脳の働きである。体の機能である。
体の別の機能と比べてみよう。

手はどうだろうか。
手は物をつかんだリ、指さしたり、裁縫や料理などの作業をしたりする。
足はどうだろうか。
足は歩いたり走ったり、ダンスのステップを踏んだりする。車や工場機械の操作にも使われる。

脳の場合をみてみよう。
脳は思考する。段取りを考えたり、言葉を覚えてコミュニケーションのためにどのような表現をするか考えたり、職人の技術や機械の操作方法を覚えたりする。
体の機能としてはここまでだろう。

脳にはそのほかの使い方があると当たり前に考えられている。
過去に危険だった生物や人間、場所などを覚え、避けるようにしたり、社会生活におけるコミュニケーション上の工夫、いわゆる「いい人」「魅力的なパートナー」を目指し、どう努めるか考えたりする。

これらは体の機能とはいえない。
過去に危険だった生物は本能的に避けることはいいとしても、別の飼い犬や人間、場所などは同じように危険だとはいえない。
近所の飼い犬が狂暴だったからといって、友人の飼い犬も狂暴だということはほとんどの場合ありえない。
同級生のある大柄な男子が壁ドンをしてきて怖かったとしても、成人して彼氏が壁ドンをしてきたとき、同じように怯えていては彼氏が戸惑うだろう。
3丁目の角を歩いていて車と接触事故を起こしても、そこで交通事故が起きたのは前後20年間なかったりする。その場合、3丁目の角を異常に警戒することは意味がなく、すべての角を普通に警戒するだけでよい。

「いい人」「魅力的なパートナー」を目指すことも、自分にとっての「いい人」像、「魅力的なパートナー」像であり、他の人から見て同じように感じるかはむずかしい問題だ。たとえ、それが正しかったとしても、少しも実現できていないかもしれない。本人は努力しているつもりでも、「いい人」「魅力的なパートナー」と思われなければ意味がない。

このちがいを知ってほしい。
脳は体の機能としての使い方と、体の機能としてではない使い方があり、後者はほとんどの場合において役に立たないばかりか、弊害になっている。無意味で、人生の限られた時間を無駄にしてしまう。

よく考えてみてほしい。
大物と呼ばれる人、成功者には、この体の機能としてではない脳の使い方をしていないから、無意味な恐怖をもたずに大胆な行動に出ることができる。
勇気がある人とない人のちがいは、勇気をもてるかどうかの問題ではなく、脳の使い方のちがいだったのである。

私はこのちがいを、次のように表現している。

  • 体の機能としての脳の使い方=「計画の思考」「技術の習得」
  • 体の機能としてではない脳の使い方=「恐怖」「予測」「期待」「理想」「慢心」など

前者は「自分のためだけ」の使い方である。
後者は「周囲をどう思うか」や「自分が周囲からどう思われるか」の使い方である。
なにも利己的になればいいといっているのではない。
周囲とのかかわり方は、マナーを覚えてマメに取り組めばよい。それだけでもたいへんであり、尊敬に値する。

後者の使い方を、私は自我と呼んでいる。

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  1. 2017-5-8

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