「主体と客体の非二元性」の解放感

一度でも「私が認識している架空の私」が何もしゃべらなくなった感覚、心が騒がなくなった感覚を体験すれば、誰もが衝撃と感動を覚える。「私がこのままで受け入れられる喜び」と表現する者もいる。過去のしがらみも、未来の不安もなくなり、純粋にこれからやろうとすることに向き合える安心感は、超リラックスと呼べばいいだろうか。何も恐れるものはなく、その心の中には希望しかない。

これを「本当の愛」と呼ぶ。「恩寵」とも称される。完全に存在を肯定された喜びは、言葉で表し尽くせないものがある。正覚者ガウタマ・シッダールタはこれを「涅槃寂静」と表現した。ひとりで味わう感覚はまさにそのとおりだ。
これを広い視野で見れば「慈悲」となる。もし自分がこのままの世界で希望を見出したとき、同じ世界にいる別の人間がすでにある希望をないと思い込み苦しんでいるなら、その誤解を解いてあげたくなるだろう。これが慈悲である。

それとは反対に、すでにある希望をないと思い込んでいるだけであるなら、同じ世界に住んでいる自分はそのことに恐怖心や不安を感じない。希望がないと思い込んでいるその人間もすでに恩寵のなかで生きていると実感できるからだ。感情を込めて歌っている歌手が、悲しい歌詞に入りすぎ、泣きながら歌っているようなものである。それをわざわざ指摘してしまっては、興ざめするというものである。
実際、「私が認識している架空の私」を本当の私、あるいは模範的な私と思い込んでいる人に、それは自分で作り上げた架空の私だと指摘すると激高する。

かわいそうな人を闇雲に助けることが慈悲ではなく、本人の意思を尊重することも慈悲である。だからこそ慈悲には「慈」の字が含まれている。ただ救い上げるのではなく、相手のレベルにつき合ってあげることも慈悲なのだ。

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